撮った写真をアクリルマウントしてもらった。
3月の個展で発表しようと思っている。
これらの写真を入れるフレームは自分で作った。
例によって鉄製の頑丈で重いやつだ。
体調(変形性関節症)や環境問題(住宅地で制作している)もあって、もう鉄フレームは作らないのではないかと思っていたが、いざ展示となるとこのフレームしか思い当たらない。
2025/01/31
2000年に美濃加茂市民ミュージアムが開館してから、今年で25年になるそうだ。
阜県美濃加茂市にある文化施設で、美術展示や博物館運営、ワークショップなど各種関連イベントを通して地域住民・教育機関とのコミュニケーションも密にしながら活発な活動を行っている。
開館25周年を記念し、これまで行ってきた「現代美術レジデンスプログラム」を振り返る展示を企画している。
僕は2022年1月にこの企画のお世話になり、「風景を愛でる」というタイトルの写真展をした。
まるで昨日のことのように思うが、もう3年も経ってしまった。
時間の感覚がますます加速しているように思う。
「芸術と自然」
美濃加茂市民ミュージアムの現代美術レジデンスプログラムを振り返る
会期/2025年2月22日(土)-3月23日(日)
開館時間/9時-17時
夜間開催日/3月20日(木・祝)は20時まで開館
休館日/月曜日(ただし祝日の場合は開館し直後の平日休館)
会場/美濃加茂市民ミュージアム 企画展示室・展示ホール
主催/美濃加茂市+みのかも文化の森 アートボランティア
美濃加茂市民ミュージアム
所在地/岐阜県美濃加茂市蜂屋町上蜂屋3299-1
電話/0574-28-111
最寄り駅・美濃太田駅[北口]徒歩22分
2025/01/28
砂出ししてから沸騰したお湯にいれる。
入れる直前に、貝は異変を感じたのか口を閉じた。
しばらくすると2枚のフタが開く。
開いたら火を止めて味噌を入れる。
シジミのみそ汁を作った。
お湯にいれる直前まで生きていた。
こうやって十数個の命を目の前で奪った。
僕は他者の命を食べて生きている、そういうことをシジミのみそ汁から改めて学ぶ。
2025/01/27
滋県立美術館で開催されている[BUTSUDORI ブツドリ:モノをめぐる写真表現]を見た。
古い時代の写真が多かったが、自分にはいつも新鮮に感じられる。
何がどのように写っているかということと同じように、支持体にどのように定着しているかということを観察できるためだと思う。
写真は物体だ。
いつも支持体と関わる。
2025/01/26
4×5カメラを使っていたことがある。
今も持っているから使おうと思ったら使えるが、感材の高騰で現実的ではなくなってしまった。
フィルムの文化はほぼ終焉を迎えている。
4×5カメラの面白かったのは「あおり」を使うことだった。
しかし、これもPhotoshopで簡単にできてしまう。
4×5が廃れるわけだ。
2025/01/22
Oギャラリーeyesでの個展を終えた。
退職後初めての個展なので、多くの日数を会場に詰めることができた。
作品を眺めながら長い時間を過ごすことになり、少し客観的に自分を眺めることもできたように思う。
自然や人工物などの関わりの中で、日常的に行っている感覚的な認識、無意識に行っている動作、事物に対するありきたりの反応のしかたなど・・・そういうものを別の視点でとらえなおす装置を作ることを目指すのが自分の「仕事」だと思う。
作品制作やそれを媒介に考えることをムカシは「仕事」と呼んだ。
最近はもう死語になった。
今はなんと呼ぶのだろう。
2025/01/19
写真は紙切れ。
2025/01/17
2週間の個展も残り4日となった。
思うところあり、展示作品の表裏を変更することにした。
今回の展示物は、事物を眺めるための素材として考えているせいか、会期途中で置き方を変えることについても流動的な感覚で対応できる。
そのことを自分でもちょっと驚く。
2025/01/15
昨日は石切神社に初詣をした。
石切の駅の通路でこんな壁のしみを見つけ、どこかで見た顔だと気になっている。
パウル・クレーかジャン・フォートリエの作品が片隅に浮かぶが特定できない。
2025/01/13
壁面は垂直なのに、額は少し下方に傾く。
それは作品裏面に展示用のヒモが張ってあり、そこを取り付け金具に引っかけるためだ。
日本家屋の鴨居に賞状額が下方に向くように設置される事がある。
畳に座る客に見やすい配慮か、日本家屋の持つ構造上の必然なのだろう。
一般家庭の鏡は下方を向かない。
たいてい自分の目の高さに垂直に取り付けるものだ。
2025/01/09
今朝 Facebookを開いたら、11年前(2014年1月6日)の投稿を教えてくれた。
11年前の今日、この投稿をしたようだ。
円形や、円い絵画・写真などについて調べていた頃だ。
もう11年経ったとは・・・。
数年前のように感じる。
どうも通常の2倍くらいの時間認識能力を持つようになったらしい。
これからもっと加速するのだろう。
進化が進んでいる。
コメントを次のように書いている。
書籍に掲載されていたボッティチェリの「幼いキリストを抱く聖母」の複写。
正円に描かれた絵らしい。
聖母の頭の上に太陽が描かれていて、その部分に蛍光灯の光が当たり、 ちょうどいい具合に本の印刷がテカっている。
2025/01/06
直角を持たない四角形をつくった。
平面にカシュー塗料を何層にも塗っていくと、漆のような光沢が出る。
こういうものは写真撮影が難しい。
鏡のように写り込むものは、写り込む素材であることも表現したい。
一般的に、大きな黒い幕を張って小穴を空け、その穴からレンズを差し込みライティングしたりしてみるのもいいが、恐らく無理だろう。
デジタルなら何とかならないかと、つい安直なやり方を真剣に考えてしまう。
これは、デジタル写真が進歩した一つの弊害で、人間を横着にする。
屋外で足元に置いたそれを眺めたら、昔の透明硝子のようなぐにゃぐにゃの自分と風景が写り込んで、表面の様子が再現されているように思った。
作品記録写真として使えないけれど、表面の質感を感じるにはいいな。
と思って一枚撮る。
2025/01/05
日下部 一司 展
事物を眺める
2025年1月6日(月)-1月18日(土)
午前11時-午後7時(土曜日は午後5時まで)
日曜日休廊
Oギャラリーeyes
http://www2.osk.3web.ne.jp/~oeyes/
[事物を眺める]
写真を撮るようになって、ファインダー越しに視る風景のことを考えるようになった。
矩形の持つ縦・横の比率や、水平・垂直の直線が及ぼす写真への影響についてである。
それは目に見える世界の、どの部分をどのように切り取るかということでもあり、それで写真が成り立つのなら、なんとミニマルな表現方法なのだろうと思う。
作品を「作る」というが、最近は身の周りの事物とどう出会うかということが興味の中心になってきた。
作ることより眺めるほうが面白い。
このように言ってしまうと身も蓋も無いのだが、そういう境地にたどり着くために、これまで制作を続けてきたのだとも思う。
転がっている石ころを一つ拾って特定の場所に置くような行為は、写真撮影に似ている。
すでにそこにあったものを、カメラで切り取るように別の場所に置くことである。
非日常な空間にいくつかのものが並ぶと、そこに新たな意味や解釈が生まれる。
選んだ単語を無造作に並べるのではなく、あるルールに従って並べると、文章でもないのに表現になるようなことだ。
2025/01/03