公園のコンクリート塀に描かれていた。
最初、児童の絵だと思ったが、恐らく心得のある人の手によるものだろう。
肌の色を塗るのではなく、背景を塗りつぶすことで人物の輪郭を表現していることや、縞柄の描き方の無駄のなさなど、素人らしさがない。
この絵が描かれたあと、2本の傷が入ったようだ。
もしかしたらこれも玄人の仕業ではないかと推察したりしてしまう。
傷のおかげで、動きのないサッカーボールや人物にスピード感が加わった。
相当な達人に違いない。
ちなみに、この亀も同じ壁面に描かれていた。
ヘタを意識している。
肩部分にある 黒い筆あとが謎を呼ぶ。
2025/02/25
↑ 先日、気になって撮影した風景。
風景か・・・。
こういうのは「光景」とでも呼ぶのかな。
言葉の使い方がちょっと気になる。
最近「事物」という言葉を使っていて、友人から「 事物 も70年代美術でよく使われた言葉ですからね」と言われたことも気になっている。
そうかもしれない。
70年代は主観を交えず即物的な姿勢でものを考えていたから、こんな言葉が好まれた。
物事(ものごと)ではなく事物(じぶつ)。
漢字で書くと順序が逆だ。
----------------------------------------------------------------
ふうけい 1【風景】
〔「景」はひかりの意〕
① 目の前にひろがるながめ。景色。「田園―」「窓からの―がすばらしい」
② その場のようす。情景。「練習―」「ほほえましい―」
こうけい くわう― 01【光景】
① 目に映る景色や物事のありさま。「ほほえましい―」
② 日のひかり。
じぶつ 1【事物】
① ものごと。「具体的な―につき詳しく考察する」
② 〘法〙 事件と,その目的物。
ものごと 2【物事】
物と事。一切の有形・無形の事柄。いろいろの事。「―にこだわらない」「―には限度がある」「―をてきぱきと運ぶ」
2025/02/23
京都を徘徊した。
祇園のこの路地には巨木が塀から生えていて、以前から好きな風景だった。
それが写真のように切られていて残念に思う。
威風堂々と、まるで御神木のような存在感を持っていただけに、バチ当たりな行為に感じてしまった。
所有者の都合か、近隣住民の苦情か、あるいは行政の指示か・・・。
血もしたたる生々しい阿部定物件が発生している。
痛い・・・。
2025/02/18
写真には支持体が必要だ。
それは紙であったり液晶だったりするが、僕は紙の上に乗った写真が好きだ。
たぶん、70年代に美術を始めたことがその原因だと思っている。
当時は「物質」とか「表面」とか「存在」など、美術を語る独特のキーワードがあった。
制作のスタートがそこからなので、紙という物質やその表面の在り方から逃れられない。
昨年はデジタルカメラで円い写真を中心に撮った。
いくつかの目的があったためだ。
写真集のこともあったし、個展のための展示や印刷物などのためだった。
今年になって、それらの写真からアクリルマウントした50×50cmの作品を5枚作った。
デジタル写真の出力方法として、いまのところ紙媒体への印刷か、ラムダ銀塩プリントのアクリルマウントしか思い当たらない。
鉄製のフレームを好むのも、物質への偏愛である。
3月の個展では、薄紙に出力した写真を画廊壁面に直接貼り付ける展示方法を採ろうと思っている。
壁の表面が持つ凹凸がどのように写真を支えてくれるのだろう。
印刷物とアクリルマウントした作品も別室に展示する。
2025/02/16
昨日は徘徊のついでに猿沢池(奈良市)界隈を撮影した。
松の木にこんなものが突き刺さっている。
誰かのいたずらかと思ったが、しっかり丁寧に突き刺してある状態から見ると、どうもいたずらではないようだ。
調べてみたら、松枯れ防止樹幹注入剤(製品名/グリンガード・ファミリー)による治療光景だった。
山間で常緑樹であるはずの松が、茶色くなって枯れている様子を見る。
「松喰い虫にやられた」と、林業を営む私の父は言っていたものだ。
正式名称は「マツ材線虫病」、萎凋病(水が届かず萎しおれて枯れる病気)の一種だという。
この伝染病は、マツノザイセンチュウという北アメリカ大陸から渡ってきた微小な生物がもたらすものだそうだ。
更に調べると、マツノザイセンチュウの繁殖にはマツノマダラカミキリという中間宿主が関わっているらしい。
そこに人間の利害が加わり、複雑な経路で感染を広げているようだ。
いまや日本国中、世界中に恐れられている森林病害となっている。
いろいろなものの流通が、外来種被害をもたらす。
これも環境問題だな。
2025/02/15
桂浜はとてもきれいな海岸で、ゴミ一つ落ちていなかった。
おまけに貝殻も極度に少ない。
石を拾った。
先日の個展で直線が入った石を展示したが、その記憶のためかこんな石に目が行く。
大きい石の円いシミもなんだか捨て難い。
2025/02/06
高知県立井美術館で開催されている三嶽伊紗の展覧会に行ってきた。
近年盛んに制作している映像作品が、彼女の仕事の膨らみを豊かにしている。
2007年に「八つの課題」という展覧会をギャラリーヤマグチクンストバウでやったことがある。
井上明彦・今村源・三嶽伊紗・日下部一司の4人による課題制作をする展覧会だ。
その時の課題「映像作品を作る」という彼女の課題をきっかけとして映像作品制作が始まった。
だんだんその質が純化され、今では彼女の仕事を理解するのに重要な存在になっている。
ピンホール写真を使ったスチールも良かった。
会場で映像作品を視ながら音を聴いた。
映像には音がないはず(恐らく)なのに・・・音が聞こえる。
それが良い感じだ。
しばらくして気づいたのだが、それは館内空調音と僕の耳なりが混じる音だった。
そのことがとても新鮮だった。
私事だが、音に関して今は「無音」を感じることができなくなっている。
僕にとっての音は、いつも雑音が混じる。
すべての事物に音を聞くというわけだ。
2025/02/05
二分割
2025/02/04
すき間を見る。
2025/02/03
浪曲は長いあいだ聞いたことがない。
小学校低学年のころ、神棚のとなりの真空管ラジオから聞こえていたものだ。
だみ声と三味線が子守歌となって、当時はこたつで寝てしまう日々だった。
そのことを思い出し、ちょっと聞いてみたくなり購入してみた。
広沢虎造の8枚入りCDが届いた。
送料込みで1000円。
なんと安いではないか。
全部で何集あるのかは知らないが、購入したのは第1集、清水次郎長伝。
近ごろは聴力が衰えたせいか、ちゃんと聞き取りにくい。
耳を澄ますと、だみ声の物語がゆっくりした時間でつながっていく。
浪曲が流れていたころは、こんな時間で世の中が動いていたのだろう。
そして、気づくと物語を聞いていない。
音楽のようだ。
そしてやはり眠い。
この歳で子守歌を聴くのも一興かな。
------------------------------------------------------
二代目 広沢 虎造(ひろさわ とらぞう、1899年〈明治32年〉5月18日-1964年〈昭和39年〉12月29日)は昭和時代の浪曲師.俳優。東京府東京市芝区白金(現東京都港区白金)出身。本名は山田信一、旧姓は金田。[ウイキペディアより抜粋]
2025/02/02
昭和54年(1979年)に発行されている。
富岡多恵子の「写真の時代」だ。
カメラ毎日に連載された2年分の記事をまとめている。
その中の「月例コンテスト流写真」という文章。
↓
------------------------------------------------------
毎月コンテストに参加してくる人間の多くは、楽しみで写真を撮っていて、それでゴハンを食べようとしているわけではなく、またゴハンを食べているひとでもない。(コンテストを舞台にして玄人になろうとするひともたまにいるだろうが、そういうひとの写真は多分、二等にはなっても一等にはならないだろう)そういうひとの写真に対して、技術的ディティールを云々するよりは、むしろ、その人間がいちばんなにを見たいのか、何をいちばん欲しているかを見抜いてやるべきであって、素人の術語で批評しても、素人をニセの玄人にするだけである。素人は才能によって突然、玄人を超えられるが、ニセの玄人は永遠に玄人にはなれないのだ。月例コンテスト流の流儀は、だからとどのつまり、その流儀の中での、ニセ玄人をつくっていくので、年々歳々ひとが変わっても、その流儀のつまわらなさは変わらないのである。(抜粋)
------------------------------------------------------
カメラ雑誌に書くには厳しい意見だ。
というのも、カメラ毎日は「月例コンテスト」に参加する読者にも支えられていたからだ。
コンテストで批評をする立場の人間に対する言葉でもある。
こういう場であるのにかかわらず、このような言葉で発言をすることを批評というのだろう。
で、その現状をふまえながら彼女は「素人の写真はもっとおもしろいはずである」と結んでいる。
46年前の文章だ。
2025/02/01