一段低い場所に向かう道路がある。
コンクリートの壁面がこちらの道路と同じ高さで続いているので、目の錯覚というかそういう作用で危険なことになりかねない。
スピードを出してここを通過したら、急に凹む地形に運転者は驚くことになるだろう。
事故に結びつくこともあるかもしれない。
最初不審に思った黄色いテープの存在と意味が理解できる。
水平と斜面、二つの形状がこの黄色いテープで強調されてる。
ミニマルな注意喚起だ。
2021/06/30
現実的な事情が表層のデザインをする。
他律的な意匠、というようなものだな。
2021/06/27
宝石のような写真を作りたいと思う。
宝石のような写真を「撮る」のではない。
宝石のような・・・、という言い方は誤解を生むかもしれない。
おそらく誤解されるだろう。
誤解を承知で話を進める。
次の2点に注目し制作を行うことにした。
1/物理的に小さい写真であること。
2/支持体の持つ物質感を内包する写真であること。
数年前に古道具市で写真アルバムを買った。
昭和初期と思われる風景や人物を撮ったモノクロームの写真が台紙にのり付けしてあるものである。
ところどころ写真が剥がされた部分もあって、所有者の意志の痕跡が残っている。
どれも小さなサイズの写真だ。
コンタクトプリントを切り取ったものもある。
気に入った写真(と思われる)が比較的大きく引き伸ばされ、このアルバムの違うページに貼ってあったりもする。
カメラも感光材料も高価であった時代だから、一枚一枚が貴重な記録であったことだろう。
現代の消費される写真とは違う存在感がある。
その意味で「宝石のような」写真なのだ。
思い起こせば、自分の実家にもこれと同じような写真アルバムがあって、そこには幼い私自身が写っていた。
やはり糊(あるいはご飯つぶ)で貼り付けてあって、写真の上に万年筆で書き込みがあったりもした。
あれも、戻れない時間の彼方を記録した映像と物質なのだ。
写真があの頃持っていたそういう部分・・・。
それを「宝石のような写真」と形容したのである。
時間は、刻々と過ぎていく。
「今」も、いずれ「昔」になるのだ。
だから、今を撮ることは昔を撮ることでもある。
昔の風景と似ていても不思議ではない。
2021/06/25
四天王寺の朝市に出かけてカメラを買った。
東郷堂のmeisupil HALFというカメラで、ネットで調べたら1960年頃のトイカメラのようだ。
普通なら朝市でカメラなんて絶対買わないのに、購入した理由はハーフサイズカメラだったからだ。
なんと、35ミリフィルムが使える。
それに、フィルム面が平らではなく、カーブする仕掛けになっていることも購入の理由である。
レンズ性能を補う、古いトイカメラ独特の形状だ。
おそらく写りに特色があって、今やっている技法「雑巾がけ」には案外適当に心地よい写真が撮れそうに思ったのである。
試しにその場でシャッターを切ったらちゃんと動く。
動く上に程度がいいので、つい気を良くしてポンと2000万円(2000円)で買った。
自宅に戻り、フィルムを入れて巻き上げ、シャッタ-を押そうとしたら、シャッターが降りない。
何度もフィルムを取り出したり入れたりしたが、どうも正常に作動しないようだ。
目の前の「使えないコレクションカメラ」に、意気消沈する。
2021/06/22
荒木経惟さんだったと思うが、レンズキャップをしたままシャッターを切って写真に日付を写し込んでいた。
真っ黒の画面に日付が写っている。
データバックがついたフィルムカメラで撮影すると、シャッターを押した時間が写るのである。
コンセプチュアルというか、河原𥁕というか・・・。
「一瞬は長いと感じた」というキャッチコピーは、ニコンF801のコマーシャルで、8000分の1を写しとめる高速シャッターを誇るコマーシャルだった。
写真は時間を切り取るのだ。
8000分の1秒という時間の帯を写すのだから、それは8000分の1の長さの動画を撮ることでもある。
動いているのに、止まって見える8000分の1というムービー。
屋根の影とトタン板の釘の並びが重なる時間。
この時間は、緩やかにスローモーションで過ぎていく。
2021/06/18
ハーフサイズカメラを使っている。
ハーフサイズカメラは、1コマの感光面が36mm × 24mm、いわゆるフルサイズの半分の17 - 18mm × 24mmで撮影を行う。
カメラによってその大きさが違うことは前回(2021/06/09)述べた。
実際にプリントしてみるとその比率の違いに改めて気づく。
上がMERCURY Ⅱで撮影したもの、下がOLYMPUS PEN FTで撮ったものだ。
MERCURY Ⅱのふくよかさがまだちょっと馴染めない。
なんかギリギリ感のようなものにかけるように感じる。
慣れたらまた見え方も変わるのかもしれない。
2021/06/15
今村源の展覧会を見た。
いつもながらの今村源の世界である。
今回は映像を使った作品があった。
それがいわゆる「映像作品」ではなく、彫刻的に扱われていたのが印象的だった。
通常映像は、スクリーンや壁面、あるいはモニターに映す。
映った映像を眺めながら時間と世界を共有するものである。
私は映像作品が苦手だが、なぜ苦手なのかを今村の作品を見てわかった。
時間の共有という部分が欠如しているからだ。
今村の作品は、時間共有を強要しない。
まるで風で揺らぐ植物を見る自分のような、あなた任せの時間を持っている
彫刻的な映像だと思った。
今村の映像は半円球状の物体に投影されていたが、それが立体的であるという意味ではない。
映像そのものを見るのではなく、そこにある物体を見る仕掛けになっていたことだ。
彼の力量を改めて感じた。
2021/06/12
形状の相似を見つける。
このアイデアは相当古い時期から温めていて、気がつくときに撮影してきた。
最近、このことに集中して風景を見るようにしている。
そうするとあんがい新たな発見がある。
2021/06/12
影は魅力的だ。
日光が当たって物体の形が版画のように映し出される形、影。
日が陰ると消えるのも良い。
事物の関係を示す矢印のようだ。
2021/06/10
ハーフサイズの比率が好きだ。
よく使うのはオリンパスペンFシリーズだ。
オリンパスペンでは たくさん写真を撮ってきたけど、近頃はコニカ・オートレックスやマーキュリーを使ったりしている。
オートレックスはフルサイズとハーフサイズが撮影途中でも切り替えられる面白さがある。
それは一本のレンズをつけていて2種類の画角が選べるということでもあり、この発想の転換はなかなか魅力的だ。撮りわけたネガを見ると一本のネガに2種類の大きさの写真が写っている。
マーキュリーはなんと言ってもそのルックスからだ。ロータリーシャッターを採用していることを誇らしげに主張するかのような円弧を描くデザインは魅力的だと思う。
しかし、これら3種類のネガの大きさが違う事には困った。
私の場合はトリミングしないでプリントしたいので、ネガキャリアを削って使っている。
このため写真の周りに黒い枠がつくことになるが、これはブレッソンの写真にも見られる処方である。
困った・・・というのは、今まで使ってきたオリンパスペンのネガキャリアが、オートレックスにもマーキュリーにも小さいのである。
しかも、オートレックスとマーキュリーもそれぞれその大きさが異なる。
そこで、それぞれのカメラに対応するネガキャリアを加工することになった。
ハーフサイズのネガキャリアはなかなか手に入らず、古いボロボロになったものをネットで見つけ加工している。
思えば、35ミリフルサイズもカメラによってそのサイズが違う。メーカーや機種によってそれぞれ違うのである。
しかし、違いはあるがほんのわずかで気にならなかったがハーフサイズでは1ミリ程度の大きさの違いがあり汎用性のある1種類のネガキャリアを使うことが出来ないのである。
2021/06/09
白黒写真に油絵の具で彩色する「雑巾がけ」と呼ばれる技法で写真作品を作っている。
もともとは写真の修正技術として用いられたものが、いつのまにか表現技術に進化してしまった。
布きれで写真表面をこする様子が雑巾がけのようなので「雑巾がけ」という名前がついたそうだ。
ゴミの入った下手な印画をきれいに修正する行為を「雑巾がけ」と自嘲的に呼んだのかもしれない。
撮影はフィルムカメラで、しかもモノクロフィルムを使う。
昨日は何枚かの写真を焼いたが、気負って撮った写真はプリント時に力を失い、期待せずにシャッターを切ったものが良い出来だったりする。
デジタルカメラとは違って、撮影結果がわかるまでにずいぶん時間がかかる。
このあとの「雑巾がけ」が残っているので仕上がりはまだ先だ。
2021/06/08
石ころが誰かに蹴られて転がった。
地面に埋まっていたのに、ほっぽり出された。
凹みができる。
雄型と雌型だね、これは。
石ころのあったところに、石ころの姿で空間ができている。
今まで石の空間だったのに、空気の空間になったんだなあ。
空気はいずれ砂や土で埋まる。
石ころはどこに落ち着くのだろう。
2021/06/08
竹藪があってそこにロープが張り巡らされ、この張り紙がありました。
張り紙というか、吊るし紙。
ビニールの中に水分が発生し、汗だくでしゃべっているようにも見える。
筍が生える季節なので、勝手に入山し採っていく輩(やから)への警告です。
「禁止」
「かえれ!」
「立ち入り禁止」
そういう語句が手書き文字でしつこく書かれています。
怖いな。
これは手書き文字だから怖いのです。
印刷されたワープロ文字ならこうは怖くない。
手描きの絵画と、印刷の版画との違いみたいです。
絵画は情念。
版画は情報。
極論すると、たぶん目指すものはそういうところではないかと思ったりするのです。
当たってはいないけど、外れてもいないはず。
2021/06/06
W-iFi(Wireless Fidelity) は無線でネットワークに接続する技術のことです。
ワイヤレスというから、目には見えない。
もともと電気や電波は目には見えないのだけれど、電線があると「ああ電気が来ているな」って解る。
見えないものを見えるようにする工夫、それが電線・電柱の存在です。
そう考える方が、今の時代には自然な気もする。
見えないものが多すぎるからね。
しかし電柱は物体で、電線でつながれているので、一度設置したら動かすことが困難です。
できるだけ邪魔な場所に立てたくない。
そこでこのような(写真参照)ことになる。
要するに歩道の邪魔にならない工夫ですね。
無理やり石垣の領地を借りて、慎ましやかに・仮住まい的に立てられた。
石垣にとっては迷惑なことだろう。
こういう立場は、自分なら消え入りたい心境になると思う。
そのせいか居心地が悪そうで、正面から見ると消える電柱に見える。
2021/06/01