ラウシェンバーグの「消されたデ・クーニング」について、今日平田剛志さんに教えてもらった。
調べてみたらYouTubeでラウシェンバーグがしゃべっている動画があった。
https://www.youtube.com/watch?v=x-6Vnr79Wco
「消されたデ・クーニング」について知らなかったので、とても面白かった。
そして、ラウシェンバーグを見直した。
ムカシ、堀尾貞治さんの作品を購入したことがある。
それはまるで僕の作りそうな形態の作品だったので、ずいぶん親しみを持って買ったのだ。
今も手元にある。
当時、堀尾さんの作品は二束三文の価格で僕にでも買えた。
この作品のサインを消して自分のサインをこの上にしようと思い、堀尾さんに了解を得ようと思っていた。
悪ふざけではなく本気で考えていた。
それなのに堀尾さんは先に逝ってしまわれた。
「消されたデ・クーニング」とは意味合いが違うが、そのことを思い出す。
2021/09/20
信号で停車したときに この風景を見つけた。
三角形の建物に取り付けられた看板と電柱が重なっている。
こういうことはよくあるものだが「よくある」たびに気になる。
2021/09/18
20年前と言えば2001年。
「書く・消す-書く・消す」という官製はがきでの文通をしていた頃だ。
はがきのスタンプにその数字がある。
当時、40人くらいの友人・知人とはがきによる「コミュニケーション」をした。
官製はがきだから国内郵便ばかりだったけど、一人だけサンフランシスコの友人とやりとりもした。
2・3回往復したとき例の9.11事件が起きた。
小包などの郵便物が検査対象となり郵便物が 滞った。
このはがきは、おそらく 内容が不審なモノなので、もしもひっっかっかたら手元に戻らない気がして途中でやめた。
それがこのはがき。
20年経った。
アメリカの郵便事情はよく知らないが、我々がコミュニケーションしていた頃はこのように無造作にスタンプが打たれ落書きをされた。
そこがなんだかアメリカ的だと、当時は納得したものだ。
2021/09/08
先月亡くなった高橋亨先生に書いてただいた美術手帖の展評(1975年)をもう一度読んでみたくなって探してみたが見当たらない。
どうも紛失したようだ。
古い記事を集めたスクラップブックがあったことを思い出し、そこで発見した。
懐かしい。
「シルクスクリーンの版画的機動性には興味をひかれるが、それらの黒とグレーの幾何学的様式は、その合理性ゆえに、おのずから与える感興に限界があることは否定できない。」
という箇所は、今となってみるとよく分かる。
当時は理屈が先行していて「感興」について考えがいっていなかったと思う。
かんきょう 【感興】
興味がわくこと。面白みを感じること。「―あわく」「―のおもむくままに一首作る」
下は、当時案内状に書いた自分の文章。↓
2021/09/01
定規で引いたような純粋な直線というものが自然界に存在するのだろうか。
直線というからにはある程度の長さがいる。
適度な長さを持つ自然界の直線・・・地平線・水平線などがそれにあたるだろうか。
しかし、厳密に言うとこれらは緩やかにカーブしていて「直線」ではない。
写真を撮るようになっていつもこの直線に惑わされる。
僕は人工物が少なからずある空間で生活をしているから、写真の中に直線が写り込むのである。
これがやっかいだったり・・・まあ、たまに好都合であったりするわけです。
写真は矩形のファインダーを覗き、構図を決めシャッターを押す。
このときのファインダーの四角い直線がくせ者なのです。
風景の直線に干渉する。
肉眼で風景を眺めると、このストレスがない。
そのことに気づいた。
病気を患ってカメラを持たない生活をしたことのある奈良原一高は「風景が丸く見えてきた」と言っている。
彼はその体験を丸い形の写真で表現したが、それはちょっと間違っていると思う。
丸いファインダー、それはそれでは円形に干渉されるからだ。
つまり、写真は対象を「ある形」で切り取ることで成り立つ、そういう宿命を持っている。
絵画も同じような問題を抱えている。
人が対象を認知し記録するとき、こうした造形的干渉から逃れられない。
小説家が文章を書く自由さに比べたら、なんと不自由なことだろう。
しかし、この種の不自由さの中には発見がいくつもあって、これが面白いこともある。
2021/09/01