[一瞬のムービー]

 時計の秒針を見ながら一秒間を体感したら、一秒は長いと感じた。

 ずいぶん以前になるが、Nikon F801の「僕は一瞬が長いと感じた」というフレーズのコマーシャルがあったことを思い出す。ブーメランを投げ、帰ってきたそれが頭上のリンゴを真っ二つに割り切るその瞬間をとらえる様子が動画で撮られていた。果汁が飛び散るその瞬間が鮮明に写る1/8000シャッター搭載、ニコンのF801は世界で初めて1/8000を搭載したカメラだった。

 このように一瞬は長いのである。すなわち1/8000であっても一秒を構成する時間の帯にすぎない。1/250というシャッター速度で撮ったこの写真は、1/250の動画でもある。

2021/10/26


バライタ紙に焼いた写真で作品展がしたいと思い、この一年その準備をした。

モノクロフィルムを入れたカメラで風景を眺めてきたのだ。

先日最後の暗室作業を終え、いよいよ額装作業に入っている。

フィルムでの撮影が一段落したので、久々にデジタルカメラを取り出した。

デジタルの眼で撮ろうとするといつもと違う感覚だ。

思えば一年間「バライタ紙に焼いて彩色する写真」をイメージして被写体を眺めていたのだ。

急にデジタルに戻ると違和感がある。

それは、自分の撮る写真がたどり着く最終イメージの違いによるものだ。

デジタルイメージ特有の存在感の無さが頼りない。

写真に触覚がないのだ。

2021/10/10


変化の乏しいビデオ作品を見るのが苦手だ。

変化の乏しい・・・とはストーリーのない、そこそこ長いムービーのことだ。

古い例で言えばウオーホルの「エンパイヤ」みたいに作家の時間を共有させるビデオのことです

表現のスタイルは認めるが、これにあまり係わりたくない。

もっと単刀直入が気持ちいい。

それは僕の好みの問題で、芸術の方法を否定するものではないです。

 

今度の奈良の個展は、小さな写真を50点ほど並べる。

この展示は作る方には必然があるが、見る方にはダルイかも知れないと思いはじめた。

つまり、「エンパイヤ」みたいな退屈を醸し出しそうです。

 

「風景を愛でる」というのがサブタイトルです。

風景は目の前に広がり、ただだらだらとそこにあります。

だらだらと並べたくなったのはそういう「風景」の本質に立脚しています。

 

ビデオと違い スチール写真の救われる点は、見たいものを自由に選べることです。

無視もできるし凝視もできる。

それは「風景を愛でる」ことにも似ています。

 2021/10/06

 


またしても「2」の関係。

2021/10/01