[魚を逃す]
初心者にありがちな失敗・・・カメラにフィルムを入れたのに、巻き取りがかみ合っていなくて結局36枚分の写真が撮れていなかったというもの。
いつも最初に確認しているはずなのに、何十年ぶりにこの失敗をやってしまった。
美濃太田駅の隣に古井(こび)と言うところがあって、そこに撮影に行ったときのことだ。
見事な栗林があってその絶景を興奮して撮った。
そして別の場所に移動して確認したら、フィルムが空回りしていて何も撮れていなかった。
栗林のほかにも何枚かの気に入ったショットがあったはずだ。
「逃した魚は大きい」と言うが、自分の不注意に落胆してしまう。
2022/08/31
[レンズを愛でる]
またしてもレンズを買ってしまった。
Nikon AF NIKKOR 24-120mm 1:3.5-5.6D だ。
製品の生産はすでに完了している。
↓
https://www.nikon-image.com/enjoy/life/historynikkor/0058/index.html
https://www.nikon-image.com/products/nikkor/fmount/ai_af_zoom_nikkor_24-120mm_f35-56d_if/
フードまで付いているのに、AF機能が故障しているとのことで格安だった。
自分はAFで撮影することが少ないので、それは気にはならない。
ただ、安物買いの銭失いを反省している。
中途半端なレンズばかり増える。
24-120mmというズーム比はおそらくストリートスナップを意識したものだろう。
それならぜひ・・・と言うことで購入したのだ。
今日試写してみたら、案外よく写る。
さすが、腐ってもNikonだ。
24ミリという画角はあまり使うことがなかったけれど、こうやって持ち歩くことになると面白い。
「風景を愛でる」と言ってはいるが、実はレンズも愛でていた。
シャープに写ったらよいというのではなく、凡庸な駄レンズも愛らしいことがある。
このレンズのことではないが・・・。
同じ風景もレンズを変えたらまた違う。
あたりまえのことだが、そういうあたりまえが面白い。
2022/08/30
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調べてみたら、1996年製造(26年前)のレンズで当時の定価で84000円だそうだ。
古いものとはいえ、AF故障とはいえ、それを1780円で購入した。
レンズにカビや曇りもなく、お買い得感がじわじわきて単純に嬉しい。
[すでにそこにあった]
「レディメイド」という言葉をこのあいだ会話の中で発音したら、なんだか懐かしさを覚えた。
そう言えば最近、この言葉を使う機会が減った。
概念が定着したというか、古くなったというか、そんな気がする。
「既製品」という言葉は日本語で、こちらの方はまだ普通に使えるように思う。
ただ、美術用語として使うことがないから、美術でいう「レディメイド」とはまた違うのだ。
ここで「すでにそこにあった」というとらえ方をしてみようと思う。
すでにあったもの。
それは、建物であったり調度品であったり、大自然であったりする。
年上の人などもそうかな・・・。
すでにあったものをもう少し大切にとらえ直してみたい。
最近、写真の作品を作るようになったが、「風景を愛でる」ことも、その流れの試みである。
すでにある風景をカメラのフレームでとらえ直す。
そういうことを、今度は「レディメイド」でしてみたいと思う。
もう一度とらえ直し整えることは、新しい解釈をすることでもある。
おそらくそういうことだろう。
2022/08/30
[痛みの文字数]
先週は腰が痛くて苦しんだ。
「あたたたた・・・。」
「いてててて・・・。」
というように、「た」とか「て」が四つ連なって痛さの表現をすることに今日気付いた。
「あたたたたた・・・。」というように、五つ連続しないものだ。
いや、痛みの継続時間によるかもしれない。
そう言えば、最初の痛みは「いてっ!!!」
と、いうように「て」が一つだった。
痛みの強さや意表をつくタイミングの影響もあるかもしれない。
ともかく、腰痛の質を「た」や「て」の量が表現することを面白いと思った。
2022/08/29
[フィルム撮影]
美濃加茂市に来ている。
来ているが、明日奈良に帰る。
来春1月に予定している美濃加茂市民ミュージアムでの個展の準備で4泊5日で滞在させていただいた。
滞在5日のうち2日間は移動で使用するので、実質3日間美濃加茂市の風景を撮影した。
由布院のときもそうだったけれど、よく歩いた。
由布院から帰って一週間ほど腰痛のため自宅療養をしたので、今回は養生して歩いたつもりだ。
それでも連日20000歩以上歩いた。
由布院では30000以上歩いたから、少なめに歩いたと思う。
撮影フィルムを数えたら本数は知れている。
この中で使えるものが何枚あるのだろう。
そして何よりも写っているのだろうか?
フィルム撮影の宿命だけど、撮り終わるといつも不安になる。
2022/08/26
[笑う]
近所をよく散歩する。
ここに住み始めてもう30年以上経つから、長いな。
散歩は十年くらい前からするようになったと思う。
コースは決まっている。
カメラを持って歩く。
季節や天候によって風景は変わるから、同じ道を歩いてもそれなりにささやかな発見がある。
畑をやっている農家の小屋があって、そこに水道が引かれている。
最近はこの水道と蛇口が面白い。
散歩の度に撮影する。
同じものばかり何が面白いのか・・・と、自分でも思うけど必ずここを撮る。
笑うよ、まったく。
犬のマーキングのようだ。
2022/08/21
[写真の色]
最近は白黒フィルムで写真を撮っている。
デジタル全盛の時代に逆行した趣味だが、これも訳あってのことだ。
たぶん小学校2・3年生の自分が写ったモノクロームの写真がここにある。
実家の写真アルバムから複写したものだ。
1950年・1960年代はまだ白黒写真が普通だったので、当時の写真を見ると懐かしい気持ちになる。
先日、白黒写真をカラーに復元するアプリケーションのことをスマホで知って調べていたら、Photoshopでも簡単にできるらしいことがわかった。
小学生の自分をカラーで眺めてみたくなってPhotoshopをいじった。
なんと自動的にカラー写真にしてくれる。
白黒のデータからこのようなカラー情報がどうして推測できるのだろう。
色変換に違和感がない。
面白くなって当時の写真を何枚かカラー写真にしてみた。
カラーになると、写真情報が違ってくる。
写真に写っているささいなものが、自分の記憶の中で鮮明に現れてくる。
モノクロームでは起こりえなかった見え方だ。
そのことを面白いと思った。
モノクロームは色相を排除している。
形状情報に特化した画像の扱い方だが、逆にカラーにはない情報を持っている。
それはそれで不思議なことだ。
夢の中でよく出てくるのはモノクロームの世界である。
なのに十分にリアリティがある。
あれは何故なのだろう。
巻き尺と体重計のように、測る目的が違うようだ。
物差しを換えると、数量の意味が変わるのだろう。
それぞれに現実と気配を写している。
2022/08/17
[臆病になること]
由布院から戻った。
温泉旅行ではなくて、いただいた写真の仕事で4泊5日の滞在をしたのだ。
連日、由布院の町を歩き回って撮った。
いわゆる名所旧跡や観光スポットではなく、自分自身の気になる風景を撮影するという仕事で、条件としてはこの上ない楽しい仕事だ。
有り難い。
白黒フィルムで撮ることにして、一眼レフを2台持って歩いた。
心配した天候だったが、幸いにも良い天気に恵まれた。
由布院の朝夕は涼しいけれど、日中は強い陽射しで機材を持って歩くには厳しい。
1日30000歩以上歩いたので、夕方にはひざが笑う。
68歳にしてはやるじゃないかと自分を褒めておきたい。
さて、フィルム現像をしようとするが、いつもなら気楽に始められる作業が、なんだかおっくうだ。
怖いのだ。
ちゃんと写っているのか、現像に失敗しないか・・・そういうことが自分を臆病にさせる。
昨日まで過酷な陽射しの中で動いて、身体も気持ちも疲れているのかもしれない。
新たな緊張感を迎える勇気が出ないのだ。
2022/08/11