最近はシュレッダーを使うことが多い。

個人情報がからむ不要な書類を処分するのだけれど、手元を完全に離れる感じがいい。

情報が壊れて分解された様子が確認できるのも嬉しい。

デジタル情報はこの確認ができないから、該当書類を消去しても不安が残る。

デジタル不信がどこかにあるな。

2023/05/26

 


京都国立近代美術館で開催されている「Re:スタートライン 1963-1970」を見てきた。

「現代美術の動向展」を振り返る形で構成された展覧会だった。

1963年といえば私は10歳、1970年は17歳だ。

1972年に岐阜の田舎から大阪にでてきたが、こうした展覧会の情報は当時の「美術手帖」で見てやんわり知っていた。

当然70年代初頭はここで活躍している作家たちに脂が乗ってきた時期で、彼らの作品から少なからぬ影響を受けた。

なので、私にとっては自分自身の「スタートライン」を見る思いだった。

したがって、懐かしい。

作品が私の身体に当時の空気を運んでくる。

2023/05/20


近ごろ身辺の整理をしていて、ついつい過去を眺める時間が増える。

 

古い印刷物が出てきた。

そこで「印刷された文字をテキストデータに直す」というiPhoneカメラの機能を試してみた。

100パーセント正確ではないが、おそらく90パーセント以上正しくに認識しているように思う。

便利だな。

きちんと読み取りができなかった部分を直していくと、なんだか他人の文章の校正をしているような気持ちになる。

 

過去が気になるのは年齢のせいだと思っている。

定年退職の節目がそうさせるのかもしれない。

 

過去への視線という意味では、古い手紙やハガキなどもやばい。

特に故人からのものは処分に困る・・・。

パソコン内に残るメールとはわけが違うな。

嵩(かさ)のあるものが持つ力だ。

2023/05/18

被写体としての静物

日下部一司

 静物写真というジャンルは1839年の写真術発明とほぼ同時期に発生している。動くものを写し止めるには不向きであった当時の感材事情を考えれば、静物や風景がまず被写体として選ばれたことは当然であり、それまで綿々と描かれ続けてきた静物画を模す形で静物写真が試みられたのは容易に想像できる。その後、感光材料の進歩とともに被写体は人物や動くものへ広がり、そしてついには動きそのものが枝写体となる動画を生んだ。今日、写真はデジタル世界と接触することによって新たな展開を迎えている。

 しかし、時代は変わっても映像を構成する「被写体」についての意味と無意味を問う作業は終わることがない。像を映すことによって成り立つこのイメージ世界にとって、被写体は表現のために放つ最初の言葉としての役割を担うのである。

 1840年の撮影とされるWiliam henry Fox Talbot による「朝の食卓」という作品がある。それは大きな円いテーブルに並べられたポットや紅茶カップ・フォークなどが並んだ写真であるが、食卓に並ぶはずの食物がない。パンがあるわけでも果物が写っているわけでもない。しかも、それは何人分の食卓なのかすらわからない中途半端な数の食器だけが、絵画における積み上げ遠近法のように机上に配されている。「朝の食卓」というタイトルにはそぐわない生活感の全く無いこの写真構成は、絵画的というよりはフォトジェニックな視点であり、人間と事物の間に「カメラ」があることを意識し、描くことではなく撮ることによる表現の萌芽をすでに思わせる。

 静物写真においてのモチーフは、モノとモノとの関係性から生みだされる人工的な表現空間であり、それが故にそれぞれの作家の思想を反映させやすい題材である。机上に寄せ集められ構成される事物の光景は箱庭のように風景的でもあり、したがって静物はさまざまな風景の中にも見つけ出されるべき、取るに足らない普通の出来事なのかもしれない。

モチーフが乗る台座と壺、そして花、料め上からの差し込む光。その意味でAndre Kertszの「モンドリアンの部屋」のチューリップはあまりにも静物的である。真半分に分割された画面の半分は階段室、反対の半分は完全な静物の空間である。こうした風景の中の静物を我々は日常生活の中に無意識に見いだしている。この作品の花と煮が静物的なら、階段室の螺旋状階段は静物的ではないと言えないわけがない。安井仲治の

「斧と鎌」では階段の段差と影が静物写真としての重要な被写体となっているではないか。また、福原信三の「雁来紅」は庭先の鶏頭を捉えた風景写真でありながら、その扱いはいかにも静物写真である。段差のついた緑側に二本の鉢植えの葉鶏痘が鏡面構造をとりながら延びる様子は、ものとものとの関係性から生みだされる人工的な表現空間であり、いかにも静物的である。

 目に見えるすべての世界の、ある一部分を光学的(機械的)に切り取ることで成り立つ表現を写真だとするなら、その切り取り方が表現とならざるをえない。どこをどのように切り取るかという意志がすでに表現になるのである。しかし、多くの静物写真は、対象の置かれている空間の一部を切り取るという方法ではなく、写真のために構成し視点を決め矩形の中に新たな世界を構築する方法をとる。それは絵画における静物画の影響によるものであろうが、写真という本来の表現システムから発想するならまた別の視点が現れてくるのではなかろうか。風景の中に静物を探す、あるいは静物としてのモチーフの周辺を少し離れて眺め「風景の中の静物」を見つける眼は、静物写真に対する一つのアプローチでもある。

 あるいは逆に、モチーフに向かって接近しその人工空間の内部に入り込むような、いわば近視眼的な静物との関わりも見逃すことはできない。接近することにより、モノとモノとの関係性をよりストレートに提示することもあろう。例えばchristian caujolleは、トランプと櫛を組み合わせることで明らかにしている。梅の歯のあいだに1枚1枚トランプをはさんで机上に立たせた立体は、物体同士の組み合わせとその在りようによって事物の構造を明瞭に、しかも造形的に引き出そうとしている。

 また、もっと近接した例としてJ・John Priola の「Dish towel」は使い古された布巾を平面上に広げ、あたかも標本を撮るような客観的な眼で撮影している。ここには、アカデミックな意味での絵画性はなく、純粋に写真のできる最大限の力を顕にすることで作品としての緊張感を保たせている。物質の表面に反射した光がフィルムに残す寝跡は、鏡のような再現性と記録性をもち、細部への視覚を促すのだ。この1枚の標本の細部を眺めれば小さないくつかの穴、ほころびを彩った跡が見いだされ、相互のミクロな関係があらためて見いだされてくる。

 静物写真は絵画における静物画とは違うシステムで成立する場所なのだ。それ一つでは意味を持たないオブジェが、他のもう一つの無意味と出会うことによって新たな意味を生む。静物写真は意味生成の現場を記録する、いわばモノとモノとの関係を見直す実験場だとも言えよう。

(くさかべかずし)


ピクセルマンホール。

2023/05/02


大きな石に散水用のホースが巻き付けてあった。

「ぐるぐる輪郭線」と名付けよう。

石の輪郭をホースがなぞっている。

2023/05/01


高校二年生の時、県展に出した。

学校近くの神社に生えていた大きな杉の根っこをモノクロームで描いたF30号の油絵だ。

当時は まじめに「写実」のことについて考えていたのだ。

それは大好きなジャコメッティの影響が生々しい時期で、咀嚼中というかまだ栄養になっていなかった頃だ。

県展というと、この時期のことが思い起こされる。

結果はただの入選だったけれど、世界の画家の仲間入りをしたみたいに嬉しかった。

出したのは一回きりで、それ以来すっかり「県展」を忘れていた。

 

ところが今回、兵庫県展の審査員を引き受けることになった。

しかも写真部門。

ジャコメッティで頭がいっぱいだった高校生の頃には想像できない意外な成りゆきである。

写真にはまったく興味がなかった。

それなのに、最近は写真作品で展覧会をしたりしている。

人間の興味は徐々に変化していくものだと改めて思う。

 

他人の作品を審査するとはおこがましい。

ちょっと後ろめたい気持ちがある。

2023/05/01