ブロック塀の穴が赤い。
そのことに目が行ってしまった。
穴のブロックだけ白いのにも造形的な引力を感じ、新鮮に映ったからだろう。
一呼吸して、その赤が車体の色だと気づいた。
そういうことだったのか、と解ってもなお新鮮な光景に見える。
赤色の別次元をそこに見たからだと思った。
別次元・・・というのもあれだけど。
2021/05/31
板塀の向こうから蔓植物が顔を出していた。
こちらからは向こうの世界が見えないけれど、彼らもまたこちらも世界を覗けない。
一枚が先ず隙間を通り抜け、それをまねしてもう一枚が・・・。
一番下に、今まさに触手のような葉っぱを滑り込まそうとしている。
植物に心理があるかどうかは知らないけれど、人間と似ているな。
生きていると同じことをする。
必要なものを目指して危険を冒す。
2021/05/28
コロナ禍でも植物は関係なく日常を送っている。
都会で人間と同居する 彼らは彼らで苦労があるとは思う。
まあ、大自然の中で育つ植物も他の奴らとの生存競争があるという意味では厳しいはずだ。
町中の樹木にとってこの場所は安全区域なのか、あるいは劣悪環境なのか考えてしまう。
さて、この写真について。
幹に蔦植物がまとわりついて「小さな大自然」がここに発生しているかのようだ。
樹木にとっては迷惑な・・・もしかしたら死活問題なのだろうが、人は見て見ぬふりをしている。
いや、見てはいるがその小さな大自然を盆栽を愛でるように目の楽しみとしているのかもしれない。
全身緑色の木が二本。
地面には緑色の草地・・・。
夏近し。
2021/05/27
コーナーに石。
昨日もこの件を取り上げました。
駐車禁止的な威嚇効果を狙ったのだろうか。
それにしては小さいと思う。
昨日の石は「そのへんの」石ころだったのに、この石は直方体に切り出してある。
「これ専用」みたいな風格で地面に埋め込んでありますね。
そして、その背後にレンガが装備されています。
これも直方体。
このレンガは埋め込みでは無く、単に添えられている感じである。
このレンガの存在理由も不明だ。
類は友を呼ぶのかな。
2021/05/26
ここに石があります。
移動できないようにコンクリートで固めてあります。
たまたまここにあるのではなく、この位置に必要とされてここにあるのです。
何に必要なのでしょう。
いろいろ推測しようとしますが、確固とした自信が無くて、いま言葉になりません。
誰が何のために・・・まるでモアイやナスカの地表絵のようです。
謎だけが残っている。
アバンギャルドな美術を見る時のようです。
いっそ「美術」として見た方がわかりやすい気もします。
2021/05/25
ISO25のフィルムを持っています。
ずいぶん前・・・もう7・8年前に、ドイツに住んでいた友人にモノクロフィルムを数本もらったのです。
ドイツORWO社製、NP-15という36枚撮りフィルムです。
もらった時点で、もうとっくに使用期限が過ぎていたと思います。
彼はこれを のみの市 みたいなところで、格安で買ったと言っていましたから。
古いフィルムなので撮影するには信用できず、でもそのパッケージが珍しいので、今日まで捨てることもなく保管していました。
箱に「4922 8 92」と刻印してあります。
おそらく1992年8月がこのフィルムの使用期限ではないかと推測します。
1992年といえば29年前です。
先日、戸棚のこれに目がとまり好奇心で使ってみました。
そうしたら・・・・ちゃんと写るのでです。
驚きました。
普通に撮れます。
ISO25っていうのは、今日では商品として存在しない感度です。
富士フイルムがネオパンFという超微粒子フィルムを出していた時代がありました。
製造中止になってからもう20年は経つのではないかなあ。
ネオパンFがISO感度32でしたから、ISO25はそれよりも低感度です。
そういえば、コダックの Ektar 25というカラーフィルムも!SO25でした。
この種の低感度は当時とすれば珍しい感度ではなかったのでしょう。
無造作に保管していましたが、なんだか貴重な宝物に思えてきました。
あと、5本残っています。
よく晴れた日に、これで真剣に撮影してみよう・・・。
2021/05/24
なぜそこにあるのか。
「なぜ?」と、人は理由や意味を求めます。
他の動物もそんなふうに考えたりするのだろうか。
この写真のこの石。
なぜここにあるのか不明です。
おそらく何らかの必要があってここまでやってきたのですが、目的を失っているように見えます。
いや、今も十分目的を果たしているのかもしれないけれど、それを知ることができない。
2021/05/23
だんだん、ゴリ押し状態になってきました。
今日の写真はこれ。
この風景から「対(つい)」あるいは「2(ペア)」のような関係を見つけてみます。
1/左端の鉢に2本の植物が植えられている。
2/水色のバケツと、水色の植木鉢があわせて二つある。
3/オレンジ色の三角コーンが2本ある。
4/赤色のもの(三角コーン・バケツ)が二個ある。
5/バケツが2個ある。
6/右端と左端、2個の容器には何か(植物・たぶんじょうろ)が入っている。
7/先が切られてていない、完全な形の三角コーンが2本ある。
今のところ、これだけの対関係が発見できます。
時間が経ったらまた新発見があるかもしれない。
写真には撮影時に意識していないものが写ってしまうようです。
何かに惹かれてこの写真を撮りましたが、こういう関係を 無意識に意識して 撮影したものと思われます。
人間の感覚って面白いな。
因みにこのふわっとした写真の写りは、ベス単フード外しという技を使っています。
蛇足ですけど。
2021/05/22
垂直に立つ2本の人工物。
そこから緑色の針金と、緑色のホースが垂れています。
石ころが二つ。
表現行為には「意図」が問われますが、ここには意図がありません。
この風景は表現とは関係がないものです。
しかし、こうした偶然を見ると撮影せずにはおれません。
2021/05/21
ブレッソンの写真には「対」になるものがたくさん登場する。
マチスの絵にもそういうものがある。
そういうことを意識して作ってます、というようなことを本人たち は しゃべっていないようなので、おそらくこれは彼らの感性の中に「対」に対する・・・・あ、対に対する、っておもしろい。
そうそう、「対」に対する造形原理があったのではなかろうか、と推察するのです。
世の中には相対するさまざまな現象や概念があります。
「上・下」「神・悪魔」「右・左」「女性・男性」「天・地」・・・など、2極で対象をとらえる人間の性(さが)のようなものがあるからでしょうね。
「対」は黄金比などと同じように、重要な造形原理かもしれんぞ。
知らんけど。
色分けしてたら、モランディの絵みたいになった・・・。
2021/05/20
単体のコンクリートブロックは無目的にただ放置される事例が多いのですが、ここではプランターとして使われています。
底には大きな穴が開いていますから 水はけ 抜群でグッドアイデアだな。
磁器製の真っ白な花瓶も隣に置かれています。
意表を突く斬新な組み合わせです。
ブロックの凹みにピタッと寄り添い、仲良し状態というか省スペース状態というか、この家に住む人の性格と趣味を感じさせます。
そういうわけで植物が植わる孔が四つあることになって、右端・左端に同じ植物が植えてあります。
植わっているところ・植わっていないところ、それぞれペア状態が生じています。
ここでも「対」の関係が生じていて興味津々。
2021/05/20
ブロック(block)とは、かたまりとか断片のことで、そういう状態のコンクリートを「コンクリートブロック」と呼んだり、単に「ブロック」と言ったりしますね。
この現場では「ストーンブロック」が並んでいました。
コンクリートより高級感があります。
その高級な石がなぜここに勢ぞろいいしているのでしょう。
不明です。
進入禁止の意思表示のようにも見えますが、これほどまでにガードするものは一体何なのか・・・気になるところです。
もう勝手に雑然と並んでいて、そのごろつき状態が怖い。
門番のように立つ鉄製の錆びた「アイアンブロック」を発見しました。
双方に丸い穴が開いています。
相似形というか、これも「対」の関係ですね。
おもしろいなあ、こういうの。
2021/05/19
このように玄関先にブロックが置かれるケースをよく発見してしまうのです。
なにかの目的でホームセンターで買ってきたけれど、ある日要らなくなった。
さて、ブロックは粗大ゴミとして出せるのでしょうか?
そう言うと僕は過去に捨てた経験がありません。
ゴミにも出せないこの四角いかたまりの処分に困って、こうやって整理整頓しているようにも見える。
その辺が意味不明です。
これを「整然」というか「雑然」というか、意見がわかれるところでしょう。
そういえば、なんか四角い形・直方体ばかりでできた風景です。
入り口前の階段状の不動産と、あとから置かれた行き場のない立方体たち。
あ、ドアや鉄製の水道栓のふたのようなものもありますが、みんな四角い形です。
その中に丸い形が2カ所。
雨水を流すパイプ。
そしてその痕跡。
ブロックの丸い穴があることで、矢印のような、構造の相似が発見できます。
対の風景に見えてきました。
2021/05/18
謎の配置について気になっている。
写真中央のブロックと石。
二種類のブロックが重ねられて、その空いた空間に石が乗せられている。
この配置は何を目的にこのような状態になったのだろう。
捨てるに捨てられない無用のこれらを、単に整頓しただけかな。
コンクリート製ドブ板の一部が白く変色していて、ブロックの上に乗った石と「対」の関係になっている。
ほぼ同じ大きさで、ほぼほぼ同じ色だ。
そこも気になる。
2021/05/17
文字というのは記号です。
ですからその記号の意味を知らないと、単なる「無意味なかたち」なのです。
「6」という文字は数量を示す記号です。
これを逆さまにして「9」と書くと、また別の数量を表すのです。
「の」という文字にも似ていますね・・・。
向きによって意味が違ってくる。
記号の記号たるゆえんです。
地面に書かれた文字が、何らかの理由で欠損していました。(写真参照)
この欠損具合だと元のかたちを想像できます。
かたちが想像できなくなるギリギリのかたちはどんな形なのでしょう。
少しずつ消していって、読めなくなるギリギリ。
ちょっとやり過ぎると、単なる無意味なかたちになるその限界。
そこって興味があります。
意味を失ったかたちが「抽象形態」って呼ばれるのだろうな。
具体的な意味を有しないかたちのことです。
それが、それとしてしか存在できないかたち・・・。
ああ、なんか哲学やなあ・・・。
2021/05/14
文字がない。
文字がないので、無言で注意が促される感じがする。
文字って言葉なんだなあ。
場所は、男子用トイレ・・・デュシャンの「泉」の上部に貼られていました。
マスクをして、ただ両手を真横に伸ばす男女。
コロナ以前だったら、もうこれは「現代美術」に分類される貼り紙ですね。
文字説明がない・・・という所がポイントです。
しかし、今はこれがなんの目的でここにあるのかがわかる。
この時期だからこそ、文字がない というのも気持ちがいいなと思った。
アントニー=ゴームリーの彫刻を思い出す。
2021/05/12
矩形で風景を切り取ることにすると、対角線の存在に気づく。
影を対角線に配置した。
線の延長に小屋の屋根が連なる。
2021/05/11
屋外のコンクリート壁面に、なぜか三本の手すりのようなものが取り付けられている。
この場所に・・・何の目的だろう。
なぜ三本も取り付けられているのか・・・。
これに太陽光が当たって影ができていた。
一番上の手すりの影が二番目の手すりちょうどにかかり、二番目の手すりの影が三番目の手すりぴったりにかかっている。
影のせいで、全体が3段のベンチのように見える。
こんなふうに見えるのは、この時間しかない。
少し時間が経てばこの関係が崩れる。
太陽の高さと手すりの位置・・・この絶妙な位置関係。
こういう必然に出会うと、そりゃあもうカメラを取り出すね。
2021/05/07
デジタルカメラが普及し、フィルムを使う写真が流行らなくなってきた。
現在は ほとんど壊滅状態ともいえる。
しかし「その道の」マニアのあいだでは細々と使われている。
カメラ大国の日本がこんな感じだから、世界的には推して知るべしだ。
カメラ大国だから変化も早い、とも言えるけど・・・。
フィルムメーカーとして世界の最大手、 FUJIFILM(日本国企業) も撤退しようとしている。
おそらくFUJIFILMは医療関係企業への変態を目指しているぞ。
先日、長巻きフィルムを買おうとヨドバシカメラに行ったら、なんと店員がその存在を知らなかった。
一般の人が知らないのは分かるが、フィルムコーナーの店員が知らないのにはショックを受けた。
時代だなあ、と思った。
そんなありさまなので、当然店頭には置いてなく、仕方なくアマゾンで見つけた。
フィルムがどんどん値上げされている中なのに、そこで格安長巻きを見つけた。
「チェコ共和国製」のものだ。
チェコ共和国・・・なんか、黒船で伝わったカステーラみたいな衝撃だ。
怖さ半分・興味半分で購入した。
どんな製品なのだろう。
どんな風に写るのだろう。
それを昨日、36枚撮りのパトローネにつめ替えた。
100ft(30.5m)長巻きロールフィルムで、巻いてみたら18本と10枚分とることができた。
一本が約550円となる計算だ。
2021/05/06
近頃は筆記用具として パソコンやタブレット・スマートフォンが使われている。
筆やペン以外で文字を書くようになったのだ。
「ワードプロセッサー」あるいは「ワープロ」と呼ばれた文章作成編集機がその走りだろう。
ワープロという言葉もそろそろ死語になりつつある。
「ワープロソフト」という言い方でWordや一太郎が呼ばれる程度だ。
代表的な筆記用具である「鉛筆」の出番も減っている。
鉛筆はシャープペンシルにその座を奪われてしまった。
かといって、鉛筆が絶滅したかというとそうでもない。
美大での鉛筆デッサンではまだ鉛筆を使うし、小学校低学年ではまだ普通に使われている。
最近、小学校では10Bや12Bという柔らかい鉛筆が人気のようだ。
文字がはっきりして、しかも書きやすいからだという。
6Hくらいの硬い鉛筆で光沢紙に文字を書く時など、本当に書きにくいことを僕も経験している。
作文しようとしても、この組み合わせではアイデアも出ない。
思考と筆記用具とは結構重要な関係にあるように思う。
なぜ柔らかい鉛筆が今の小学生に人気なのだろう。
ネット情報では、「子どもの筆圧が落ちていることが背景にあるのでは」とも推測されている。
要するに強く筆圧をかけなくても書けるからだ。
子供たちが屋外で力を使う遊びをしなくなり、室内での電子機器生活が増えていることが原因ではないかとも言われている。
さもありなん。
写真は、僕が使っている2mm芯・2Bのシャープペンシルで鉛筆型だ。
2021/05/05
右目と左目、二つの目があるわけです。
で、片方ずつ目を閉じて真っ白な画用紙とかを見るとですね、それぞれ微妙に色が違うんです。
僕だけでしょうか・・・。
そんな事に もう何十年も前に気付いていました。
僕だけかな。
病気かな。
右目で見る色と左目で見る色、それらを頭の中でうまくつじつまが合うようにして僕は過ごしてきたのです。
まあ、それで不自由はなかったけど。
「痛い!」って思う、その痛さは他人と同じだろうか。
「甘い」という味覚は他の人と同じだろうか。
「面白い」といって、友達とその面白さを語るとき、その面白さって同じなんだろうか。
画家・クロード=モネが 白内障だったという話を聞いたことがあります。
彼の色彩はそれを鑑賞する人の色彩と違うわけなんですね、当然。
でも、お互いが「作品」について理解し合えているのです。
理解し合うというのは、おそらく想像力を必要とするんだろうな。
右目と左目も、それぞれの想像力の中でうまいことやってきたのだと思う。
このところ雑巾がけ(古典印画法)写真に取り組んでいる。
小さな写真だ。
それを手製の金属フレームに入れて展示をしようと思う。
ほとんど資料展示のように「淡々と」写真を等間隔に並べたいと思う。
7月と11月に展覧会の予定があり、会場の図面から30数枚のフレームと作品が必要になりそうだ。
フレームのサイズは2005年のサードギャラリーの展覧会の時に決めた280×320mmである。
この比率は、ハーフサイズカメラのネガから来ている。
ハーフの比率が好きで、当時はハーフサイズの縦型写真ばかり撮っていた。
最近、この比率がいろいろなアスペクト比の写真に使えそうに思い、その実験を行おうと思う。
フレームは、写真の縦横関係なく「縦型」にして使うつもりだ。
縦や横や正方形の写真を同じ器に入れる。
それで十分良い感じに収まるのではないかと言う目算だ。
30枚のフレーム枠ができた。
あと数枚と、肝心の写真作品の制作をしないといけない。
2021/05/01