[Bell & Howell Dial35]

 

Canon Dial35というカメラを知っている。

個性的なかたちのハーフカメラだということで一時欲しいと思ったことがあって中古カメラ屋を回ったが、満足に動くものが見当たらず、あきらめていた。

その存在すら忘れていたた先日、ひょんなことからCanon Dial35の北米輸出バージョン[Bell & Howell Dial35]をプレゼントしてもらった。

なんて良い人だろう・・・。

しかも傷のないとても美しい状態のものだ。

ハードケースまで付いている。

そしてきちんと動くではないか・・・。

ありがたい出来事だった。

「ありがたい」とは「有り難い」と書くように、あることがめったにないことを意味している。

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Canon Dial35は1963年11月に発売されたハーフサイズカメラで、当時の価格で13800円だった。

スプリングモーターによるフィルムの自動巻き上げ・自動巻き戻しができるなど、各種操作がほかのカメラとは全く違う非常にオリジナル性の高いカメラである。

Bell & Howell Dial35はこのCanon Dial35(Canon Dial35-2)の北米輸出用モデルである。

1968年頃製作された。

1968年と言えば私が高校に入学した頃だ。

54年前になる。

基本操作はCanon Dial35-2と同じだが、国内向けがソフトケースなのに対し、輸出向けモデルのケースはハードケースを採用している。

2022/07/25

 


[色面]大森裕美子・日下部一司・倉智久美子  案内状(2019年)  ↑  
[色面]大森裕美子・日下部一司・倉智久美子  案内状(2019年)  ↑  

 

[技法] 

 

倉智久美子さんが亡くなっていた。

昨年12月4日のことだそうだ。

今日、SAI Galleryからの案内状で知った。

倉智さんの展覧会が7月27日から開催される。

 

倉智さんとは2019年4月にSAI Galleryで三人展をしたことがある。

[色面]大森裕美子・日下部一司・倉智久美子 という展覧会だ。

 

デュッセルドルフに住んでいた彼女とはずいぶん久しぶりに再会し、お互いの近況を話した。

彼女がアートシーンや周りのことを気にしないで自分の制作に没頭できるドイツの生活が自分には合っている、と言っていたのを思い出す。

 

案内状封筒に彼女の妹さんによる文章が同封されていて、倉智久美子の言葉が引用してあった。

「もしも、私が技法と言えるものを持つとするならば、それはたぶん、永遠にそれは本当は何かを、それに問うことであるような気がする」

 

妹の敬子さんは、彼女について「描くと言う基本の行為に惹かれるのは何故か、そうしてできたものは何なのか。アトリエの中で繰り返されたであろう、姉と彼女のつくっているものとの対話を思い浮かべます。決して器用な方ではなかった姉は作るのもゆっくりでした。」と記述している。

 

倉智久美子が「技法」という言葉を選んだところに思考のオリジナリティがあるように思う。

技法とは彼女にとってどのようなものだったのだろう。

上手さのことだろうか。

おそらくそのことではないかと、今僕は思い始めている。

技法の上達が作品を貧しくする、きっとそう思っていたのに違いない。

 

大きなサイズの作品は大きな声でしゃべることだ。

技法の上達とは、うまくしゃべることである。

乱暴にそう決めつけて話を続けると、彼女はそういうことと無縁でありたかったのではないかと思う。

何を考え何を言うべきか、だけを思っていた。

 

彼女の作品は寡黙で静かな平面作品だったが、部屋の中や外、空間、素材などを意識して、どちらかといえば彫刻的だった。

そして確実に不器用だった。

表面の細かいことは気にしない。

気にしないようにした。

要するに骨組みだけを意識して作る作家だったのだと思う。

 

2022/07/25


[つい最近]

 

来年1月の展示に使えないかと思い、古い写真作品を眺めている。

2011年・2012年辺りに撮った小さな写真だ。

10年ほど前の作品なのに、つい最近作ったように感じる。

時の流れの速さに驚くが、もっと驚いたのは作品内容が変わらないことだった。

撮影場所も相変わらずで、この10年間同じ場所に立ち止まり撮影してきたということだ。

「つい最近」という時間感覚のボケ状態が、写真の変化を遅くしているように思う。

しかし、変化しないといけない必然もないので しばらくこのまま続けることになるのだろう。

飽きることがないということは、それはそれでやりがいのある作業なのだということかもしれない。

単に怠慢なだけのような気もするが。

2022/07/10


[自分を見る]

 

自分の声はいつも聞いている。

でもそれは自分の肉体に伝わる響きと 空気の振動との両方の音で聞く声だ。

だから他人が僕の声を聞く時の音とは違う。

自分の顔をナマで真正面から見ることができないようなものだ。

そういう意味で、映像に撮られた僕の顔や声は まるで他人のように思える。

他人のはずなのに声を聞くのが恥ずかしい。

しゃべり方や しぐさのいちいちが引っかかって落ち着きを失う。

https://www.youtube.com/channel/UConi30iOL4rn4yd_0fdULSw

2022/07/07


[写真イメージと物質感]

 

「イルフ逃亡」という写真を以前から知っている。

1930年制作という記載はあるが、撮影者不詳だという。

イルフとは福岡で結成された前衛美術グループ「ソシエテ・イルフ」の「イルフ」である。

1930年にグループを結成したときに「古い(ふるい)」を逆読みして「ソシエテ・イルフ」を名乗るようにしたという。

「ふるい」の逆、「いるふ」は「新しい」ということであり、前衛的な美術グループとして福岡で活動を行ったようだ。

 

東京に行ったついでに東京都写真美術館に立ち寄り、「アヴァンガルド勃興ー近代日本の前衛写真」を見た。

その展示物の中に「イルフ逃亡」があった。

図版で何度も見た写真だったので、やっと出会えた感慨がある。

男達の黒い服が玉虫色に光っていた。

ゼラチンシルバープリント・・・モノクロ印画紙画像の含有する銀が経年の変化によって表面に現れ、美しい質感を生んでいる。

「物質」としての存在感があった。

モニターや印刷物ではとうてい味わえない。

写真はイメージを見るものでもあるが、支持体のもつ物質感を一緒に味わうものだと改めて思う。

それにしても写真の物質性にクラクラッとくるのは、きっと70年代美術の後遺症のせいに違いない。

2022/07/04


[矩形比率]

 

自分のやっている風景写真は、矩形というフレームで対象をとらえることだ。

「風景を愛でる」というサブタイトルも、「ファインダー越しの風景を愛でる」と言ったほうがより正確かもしれない。

必要な箇所を必要な分だけ切り取る。

そういう写真を撮りたい。

 

矩形の比率も重要だ。

アスペクト比によって対象の選び方も変わってくる。

自分の場合は、3 : 2の35mmカメラの比率と、ハーフカメラ比率、そして正方形での写真が多い。

まれにパノラマ写真の比率を使うこともある。

同じ風景も、写真の縦横比によって内容が変わる。

そういうことが面白い。

 

2022/07/01