雪客(セッカク)とは、鷺(サギ)の異名である。
雪のように白い羽を持った鳥が飛来し、そこにいる様子を来客に例えたのだろう。
鷺と書くより具体的な風景が見えてくる。
そんな理由で、写真のタイトルにしてみた。
表記は変わっても、その鳥がそこに居ること自体に変わりはない。
2024/05/31
五十嵐彰雄さんの古い版画の展示を見にギャラリーヤマグチに行ってきた。
「生まれ生まれ生まれて生の始めに暗し、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」という空海の言葉が展覧会のタイトルになっている。
展示は1970年頃のリトグラフの作品だ
インクの乗りがよい。
顔料に亜麻仁油を入れて五十嵐さん自身が調合し、井田照一さんのアトリエで本人が刷ったそうだ。
リトとは思えない質感で、「物質」感を大事にした1970年辺りの空気が漂っている。
カール・アンドレの話を山口さんからまたうかがった。
あの小さいサイズの作品についてである。
今回の展覧会のために山口さんはカール・アンドレを訪ねたとき、もう既に展示作品のリストができていたという。
しかし、彼の住居兼アトリエに置かれてたいくつもの小さなオブジェに目が行ったそうだ。
たいそうな衝撃だったという。
それは僕も同感で、あの大きな物質展示からは想像できないスケールだから。
今回の展覧会でにどうしても展示したいということで、山口さんは数点の作品を選んで展示リストに加えた。
それが今回の展示物だそうだ。
ミニチュアを作っていたわけではない。
小さなスケールの作品を作っていたのだという。
展示台に乗った彼のその小さいヤツは、展示をカールアンドレが指示したわけではない。
個々の作品はそれぞれ独立していて、大きな作品と同様に存在感を持つものとして作られている。
たまたまアクリルケースの中にあのような状態で納まった。
その話を聞きながら、大きな作品と同じ空間にこの小さな作品を置く・・・と言う僕の空想は、案外現実的なものかもしれないと思った。
写真を見たら、大きな身体の作家のように見えるが、実は身長は山口さんより低いという。
詩人である彼は、等身大の言葉のようにこのサイズの作品を作ったようにも思う。
カール・アンドレの小さな作品・・・これが今の関心事である。
2024/05/29
この場合、歩幅と感触、それらを足を使ってこれをどう捉えるかを考えることなのだろう。
視覚的であると同時に触覚的な作品だ。
素足で歩くことも恐らく許容されていただろうが、たいていの人は靴のままその上を歩いていた。
僕もそうした。
しまった、素足で歩くべきだった、と思う。
しかし、それは作者にとって想定外の行為であるようにも思う。
この場所は、靴を履いた状態が「普通」であるからだ。
衣服を脱いで、素っ裸でここを歩く必要がないように。
美術館という日常の延長で作品を味わうものだと、恐らく作家は思っているはずだ。
人体のサイズよりやや大きさを感じる木材や鉄素材が並んでいる。
建築物の一部のようなスケールにこだわっているように思う。
その中に、展示台に乗った小さな作品があった。
それが新鮮に見える。
当初、実作品のためのミニチュアかと思ったが、これは彼のリアルなサイズと言うことだ。
小さな作品は、土足でその上を歩けない。
アクリルケースで保護されたその作品は、展示テーブルを美術館の会場のような「スペース」と位置づけたのだろうか。
一つ一つをケースからとり出し、その小ささのまま 展示会場の床に置くのはどうなのだろう。
それをしなかったのは、何故だろう。
大きな作品の横にこの作品を置いてみたい。
それをして、カール・アンドレの作品の質は変わるのだろうか。
2024/05/28
矩形は水平・垂直を求める。
人間の知覚が重力を感じているからだろう。
重力は地球の真ん中に向かって働いている。
2024/05/25
つる植物が垂れ下がっていた。
触手が「つ」「る」に読める。
2024/05/24
100年以上前にKodakから売りだされたこのカメラはブローフィルムが使える。
しかし、僕はこのカメラでブローニーを使う気になれないので、デジタルカメラ用にレンズを外して使うことにした。
ヴェスト・ポケット・コダックのように「フード」が付いていたので「フード外し」を試そうと購入したのだ。
結果はやはりベス単と同じような写りだった。
ベス単の焦点距離よりも長いので、使用感はまた違う。
この画角が撮影にどう影響を及ぼすのか興味も募る。
逆光に弱いので、既成のフードを2本つないで自作してみた。
望遠レンズのような長さになって嵩張るが写りはよくなった。
来年の個展のために近ごろは円い写真ばかりを撮っている。
今日試写してみたら、モノクロフィルムでの撮影がしたくなった。
当然だが、古いカメラにはフィルムが似合う。
2024/05/22
あらゆる方向から眺められるというのは彫刻の良い点でもある。
それゆえに彫刻は背景を選べない。
したがって、それは欠点でもある。
公共の場に立つ人物像は往々にしてその辺は無視されることが多い。
彫刻だけ見て下さい、といわれても無理だ。
背景を必ず見ることになるから。
三次元の具象性は現実世界と親和性が高いからだろう。
彫刻にフレームを付けたらどうだろう。
そうしたら、絵画のように居場所が定まる。
しかし、彫刻は平面ではないので絵画のようなフレームは付けることができない。
その意味では、台座は彫刻のフレームかもしれない。
台座を外して直接大地に立たせたら作品の内容が変わる。
彫刻が芝生の上や木陰に直接立っている様子を想像してみる。
台座やフレームを外す試みは、作品と空間との関係を探る実験であったということだ。
絵画やアニメーションの中の「背景」は必然的に描かれるが、彫刻には背景の概念がないように思う。
しかし、福岡道雄の一連の作品は、恐らく背景を意識していた。
その意味で、絵画的な彫刻だと思う。
2024/05/20
矩形は直線4本でできているが、円形には直線がない。
そのせいだと思うが、円い写真では直線が目立つ。
直線を強調するのに円形が優れているという訳ではない。
写真が矩形であることで、写真の中の直線が意味を持つこともあるからだ。
既にある直線と、意図して取り入れた写真の中の直線が新たな関係を結ぶのだろう。
円形も同じだ。
矩形じゃないと撮れない写真、円形でないと撮れない写真がある。
2024/05/19
たつの市で醤油蔵の資料館を見た。
樽を作るための材料と道具の展示があって、そこに何種類かの鉋が展示してある。
いずれも一枚刃で、それが印象的だった。
江戸や明治など古い時代は木材資源が豊富で、節があったり逆目の出る材料を使わなかったせいもあるのだろう。
もともと鉋は一枚刃だったことは知っていたが、こうやって眺める鉋のすべて一枚刃だというのは鉋の歴史を知る上で参考になった。
二枚刃鉋は、様々な材料の状態に対応できるような工夫から生まれた。
それだけ鉋の構造が複雑になった訳で、メンテナンスにも知識と技術がいるようになったということかもしれない。
醤油蔵の資料館で鉋に心動かされるのは、自分の興味の度合いがそちらにあるからだ。
鉋と材木一つとっても、醤油作りを成り立たせる重要な技術であることには違いない。
2024/05/18
最近は砥石の減りが異様に早い。
昨年、薄くなった砥石に木製台を付けたが、更に薄くなってきた。
刃物研ぎに熱心ではなかった頃に買ったものだから、もう10年以上使っている。
今のように熱心に砥石の表面を整えることがなかったので、減り方もいびつだ。
刃物を研ぐときにも使うが、砥石の平面性を保つために 仕上げ砥石の面直しとしても使っている。
僕の持っている砥石の中で、もっとも出番の多い砥石だ。
最後まで使い切りたい。
最後まで使う・・・気持ちがいい。
2024/05/16
朴の木の葉っぱで包む寿司を田舎ではよく作る。
「朴葉寿司」と呼んでいる。
今日はそれを倣って作ってみた。
朴の葉も山椒も今の季節が旬で、香りと味がそれだけでおいしい。
2024/05/12
今村源・三嶽伊紗・日下部一司のユニットによる作品展示という形で、ドイツ総領事館150周年記念パーティに参加した。
2024年5月10日一日だけの展示で、吉原美恵子氏のプロデュースによるものである。
発表時間が4時間ほどの儚い作品だったが、久々にユニットの面白さを楽しめた。
2024/05/10
[隙間を撮る]
坂道の上にある家には、コンクリートブロックで作られた塀が続いている。
ブロックと家の間に隙間(すきま)ができた。
隙間はふたつのものが作るかたちだ。
2024/05/09
先日、iPhoneを新しくした。
データ移行に手間取ってしまい焦ったが、ともかく復元できた。
簡単にできるはずなのにどうしてこうもつまずくのか嫌になってしまう。
ストックしてある写真を見たら、並びがすべてばらばらになっていた。
しかも撮影日は移行した日の日付になっている。
やり直そうかと思ったが、もう面倒でそのままにしてある。
これまでの写真を見ていたら、古い写真が今日の写真の前にあったりする。
忘れ去っていた写真が、眼の届く場所に現れて懐かしく見入ってしまった。
開き直って、順序がばらばら というのもいいものだ と思い始めている。
自分のポートフォリオも作品を時系列に並べていない。
制作も生活も、過去と交信しながら今を意識しているのだから。
2024/05/08
1月から腰痛が、4月からは右手人さし指付け根が痛い。
だましだましやってきたが、思い切って整形外科に行ってきた。
2ヶ所のレントゲン写真を撮っての診断は、腰の方は骨には異常が無く「筋・筋膜性腰痛」のようなものらしい。
右手は「変形性関節症」だと言われた。
関節部分には軟骨があるが、歳をとるとその軟骨が薄くなって、骨と骨とが当たってしまって痛いのだそうだ。
老人の病気がまた増えてしまった。
僕は右手小指と薬指を事故で欠損している。
この欠損部分を補うように人さし指と中指を長年駆使してきた。
その結果このような「すり減り」状態になってしまったのだと思う。
てっきり庖丁や鉋の研ぎに精を出していたから、使い痛みぐらいに思っていたのに・・・残念だ。
強情ぎわの悪い僕は、
「徐々に治りますかね?」
と医師に聞いたら、
「抜けた髪の毛が生えないのと同じで、もとには戻りません」
と、僕の頭を見ながら優しい声でおっしゃった。
医師はフサフサだった。
2024/05/07
デジタルではカラー写真を、フィルムでは白黒写真を撮っている。
最近はカラーを撮ろうとしているが、モノクの眼と混線することがある。
切り替えが瞬時にできない。
2024/05/06
横井庄一さんがグアムから帰ったのは1972年だ。
その時、彼は57歳だった。
もうずいぶんおじいちゃんだと思ったが、いま僕はそれを凌ぐ70歳。
今の僕よりずいぶん若かったのだ。
そのことが驚きだ。
当時、僕は18歳だった。
最近「どっこいしょ」という掛け声が増えた。
時々「よっこい、しょういち!」なんて言いながら立ち上がったりする。
もう死語だ・・・「よっこい、しょういち」なんて。
でも口に出る。
「よっこい」で気持ちを高め「しょういち」で渾身の力を絞り出す。
この、「よっこい」が大事なのだ。
「よっこいしょ」では力が入らん。
2024/05/04
イスカ仕込みの鉋を格安で買った。
イカス仕込み でも スカイ仕込みでもない。
既成のイメージは文字を頭の中で読み替えるから要注意だ。
イスカ仕込みとは、刃が斜めについている鉋のことである。
斜めに刃が付いているので、抵抗感が少なく削りやすいということで注目していたのだ。
安かった原因は裏金がついていなかったことだと思う。
そのことは知って購入した。
そんな訳で、ストックしていた古い裏金をこのサイズに加工し取り付けてみた。
素人工作で何とかできるものだ。
木工遊びは楽しいな。
裏金(うらがね)なんて呼び方は、昨今の政治家問題を思い浮かべるが、鉋の刃を押さえる「押さえ金」のことだ。
2024/05/03
火鉢を使う家庭が無くなった。
全く無くなった訳でもないだろうが、純粋な暖房器具として今も愛用している人はいないのではなかろうか。
居場所がなくなった火鉢を、よく植木鉢として使っている軒先を見ることもある。
しかし、先日は水槽として使う現場に遭遇した。
ずらりと様々なデザインの火鉢が並んでいる。
水の入った火鉢の上には金網が置かれ、中には品種別にメダカ(のような小魚)が飼育されていた。
退職後、水鉢として活躍する火鉢の姿だ。
こうして並ぶと博物館的な味わいもある。
2024/05/02
正円写真を撮っている。
なんでもない場所なのに、丸いファインダーを覗いていると発見がある。
円のマジックだな。
カラー写真を撮るときカラーの眼になるし、モノクローム写真を撮るときにはモノクロの眼になるようなもので、円形で撮るときは円形の眼になるのだろう。
色彩が美しいからといってモノクロームではそれが表現できない。
モノクロの階調をカラー写真では表現できないようなことである。
事象やそれについての認識を成り立たせる 根本となる造形のしくみが円形の中にあるからだろう。
面白いな。
2024/05/01