フィルム時代の写真は、データではなく「もの」だった。

映像が写ったフィルム、それを焼き付けた紙、印刷物になった写真など、いつも支持体の表面に乗っかる形で写真が「存在」していたのだ。

 

いま、「もの」とか「存在」という言葉を奇しくも使ってしまったが、これは70年代美術でよく用いられた常套句だ。当時は「痕跡」とか「時間」とか「現象」といった、そういう概念的な物差しで美術を測ろうとしていたのだと思う。

 

それはさておき、現代の写真はデジタルである。

モニター上の写真は、モニターという支持体に写る映像ではあるけれど、電源を消すと消えてしまう。

つまり実体がないのである。

実体化するには、紙焼きとか、印刷物とかにしないといけない。

 

デジタル写真をデジタルのままの状態で保存する人は増えている。

というかほとんどの人は、そういう形で写真を所有しているのではなかろうか。

 

デジタルで写真作品を撮ったとすると、その映像の大きさは指定できない。

スマホの画面であったりパソコンサイズであったり、大型4Kテレビで見たりするわけで、写真自体の大きさを写真家は決めることができないのだ。

あんがい、切手サイズの写真で見せたいこともあるのではないか・・・。

そんな場合は切手サイズに紙焼きしないといけない。

 

こんな場合の写真のオリジナル性について考えてしまう。

ネットにあげた写真は、全世界82億人に配信が可能で、82億のオリジナルが出現してしまうことになる。

そもそもオリジナルとは何なのか、という面倒くさい問題が生じている。

 

印画・印刷など、写真をモノにしてしまうとオリジナル性は確保される。

世界に一つしか無い写真だからだ。

 

ウエブ上でデジタル写真作品を見せるということは、「フィニッシュが決められない作品形式」について考えることでもあるな。

 

 

2024/08/31


 真っ暗なファインダーの中に円い風景が見える。いつもは円形ギリギリにトリミングして円い風景を取り出しているが、円形をもう少し大きく切り取ってみるとこんな感じの写真になる。

 絞りの五角形がゴーストとなって写っていたり、銅鏡の凹凸が照らされている様子から、被写体と同時にレンズ自身をも写っているように見える。写真は光の痕跡だ。

 

2024/08/28


版画に興味を持ったのは、作業に終わりがあるからだった。版を作って刷り上げたら終わりで、もし不満が生じたらその作品に関しては別の方法で最初からやり直すしかない。

絵を描いていた頃、出来たと思って次の日見たら 気に入らなくて 描き足したり消したり を繰り返したものだ。それなのに、一ヶ月後に見直すとまた気になる。要するに終わりのない戦いのようなものに疲れ、そういうやっかいなところから抜け出るために版画を選んだのかもしれない。

版画が楽だという意味ではなくて、行為の一回性ということに憧れたのだと思う。後に写真を撮ることになるが、シャッターを押す行為もやはりやり直しがきかない。恐らくそのような事情で写真の世界にも自然に入り込んでいくことになった。

刷ってみるまでわからない、現像するまでわからない、というような他律的な仕組みにも惹かれる。自分の小さな頭で考えるだけではなく、たまたま起こった偶然を肯定しながら身の回りの事物に関わりたいと思っている。

2024/08/27 


JR 阪和線 美章園駅からの眺め。

ずいぶん以前の写真だ。

勤務先の関係で毎日この風景を見ていたが、見なくなって久しい。

2棟の建物が赤い点線のように並んだ風景が気持ちよく、何枚も写真を撮ったものだ。

円の直径にあたる位置で建物が並ぶ、この点線のような関係を撮った。

 

2024/08/24


Monochrome Gallery RAINは、東京都世田谷区池尻にある写真家の雨宮一夫さんが主宰するギャラリーである。

2015年の代官山フォトフェアにThe Third gallery Ayaから出品させていただいた折、会場で声をかけてもらい、それ以来のお付き合いだ。

古典印画法によるモノクロームの写真を中心に扱っているマニアックなギャラリーで、こんなギャラリーは他に知らない。

時々このような企画展に呼んでもらい出品している。

画廊に委託している作家の作品を雨宮さんの人選で展示する。

 

10TH ANNIVERSARY SHOW

9月28日(土)-10月27日(土)

開廊:土曜・日曜

午後2時ー午後7時

 

2024/08/24

 


 カメラにはのぞき穴があって、そこを覗くと風景が四角く見える。風景に近づいたり遠ざかったりしてその四角い世界を楽しむのが僕の写真だ。四角い形で眺めるだけで見ることを新鮮にする。矩形の魔力だと思う。

 矩形だけではなく円形のファインダーも不思議な力を持つ。それは矩形以上の面白さだ。円く切り取られた風景を次々眺めていく。カメラなんか持たず紙に円い穴を開けそれを持ちながら散歩するだけでもいいのかもしれない。

 しかし、シャッター音は重要で、この音があることで眺めた風景が記憶の中に定着される気持ちになる。音は大切だ。シャッター音がなかったら、エンドレスに動画を撮るような気分になるのだろう。それはそれであんがい想像力を刺激されそうではあるけれど。

 カメラという機械は映像を切り取るものではなく、見たことを確認するための仕掛けだと思う。そういう意味ではフィルムの入っていないカメラを持って出かけるのも良いかもしれない。

 名所旧跡を撮りたいわけではない。だから散歩コースが僕の撮影場所になるが、季節の変化や天気具合に応じて同じ場所を何度も撮ることになる。毎年毎年、同じ場所を撮っている。

 

2024/08/23


 空気投げを編み出した柔道の三船久蔵 十段(1883-1965) は「球は倒れたためしがない」と言った。球には中心があるが、上下がないのである。したがって縦横もない。転がって静止した状態はいつも同じ形で、倒れようにも倒れることができないのだ。

 円形はどうだろう。やはり上下がないし縦横もない。ところが円形の写真を撮ると上下が決まる。つまり被写体が持つ重力を眼が感じてしまう。

 通常、写真の矩形は四本の直線で構成されていて、その水平・垂直軸が傾くと重力に逆らう感覚を覚える。カメラは様々なものを写しながら実は重力を写しとっているのかもしれない。

 丸いフレームには四角い写真とは異なり、重力に関する水準器(縦線・横線)が無い。水準器がなくなると、私の身体は疑似水準器を目の中につくる。肉体が感じている重力がそうさせるのだろう。

 

2024/08/17


円形の写真撮影を再開した。

この機会に古い写真を整理しようと思いたち、パソコンの中の円形写真を発掘している。

懐かしい写真が出て来る。

大抵の写真はどこで撮ったかを覚えているが、全く記憶のないものもある。

そういう写真は新鮮で、まるで他人の作品を見るようだ。

良いところも悪いところも見えてくる。


同じ場所を執拗に撮っている。

あるいは同じもの(例えば矢印)をいたるところで撮影していて、基本的に写真の中味に進化がないことを知る。

 

2024/08/14


■輪郭を削る

活版印刷の版をいれる箱(棚)のようだ。

インクの汚れや日焼け、木材の反りや割れ・すり減り・・・そういうものが表面に生じている。

各所を分解修理し、軽く鉋をかける。

いわば、ごく薄く表面の輪郭を削る作業をしてみようと思う。

 

2024/08/02